噴火の記

 昭和58年10月3日、三宅島の雄山が21年ぶりに噴火した。このとき、ちょうど三宅に赴任していた私は、噴火の恐ろしさとそれに続く様々な困難を体験したのだが、今まで、それを発表しようとは思わなかったし、その機会もなかった。だが、還暦を迎え、記憶も曖昧になってくるやもしれないことを考えると、今のうちに当時の様子を書きとめておくことも必要かもしれないと思うようになった。40年近く前のことだが、噴火当時のことはありありと記憶に刻まれている。その後のことは記憶がすでに曖昧になってしまったところもあるが、それらを思い出しつつ書きとめておこうと思う。このあと書くことは、日時、地名など事実であるが、万が一差しさわりがあるといけないので、人名だけは出さないでおこうと思う。

 昭和54年(1980年)私は新規採用で小学校教師となり、新任の地は三宅島となった。もともと自然が好きだったので、初めは僻地に行こうと希望していたのが叶ったものだ。もっとも、面接に行ったときは、2人という定員に10人もの希望者がいて、楽勝だと思っていたので焦ったのを覚えている。
 自然が好きではあったが、このころはまだ蝶にのめりこむとは思っていなかった。学生時代に蝶好きのやつから指南をうけていたので、多少の知識はあり、ネットや展翅板などの採集用具は持って行ったものの、どのくらい活用するかはわからなかった。それよりも、釣りが好きだったので、こちらの方をもっとも楽しみにしていた。
 だが、実際その地に立ち、しばらくすると、見慣れぬ蝶がいることに気付いた。あとからわかったのだが、三宅にはこれといったポイントがなく、どこにいっても薄く広く分布しているような感じだったので、ここで待てば確実という場所がなかった。そのため、なかなか採集の機会は訪れなかったのだが、それでも、しばらくすると見慣れぬ蝶は数を増し、初心者の私にも楽に採集できるようになった。それどころか、その年の夏には三宅にいるすべての蝶の中で、一番数が多かったと言えるくらい増えて行った。その蝶はカバマダラだった。この蝶は南方系の蝶で日本では沖縄方面にしかいない。もちろん、三宅にいるはずもない。けれど、図鑑で確かめると、それは明らかにカバマダラであり、やがて、数の多い場所で卵、幼虫、蛹というすべてのステージを観察することができた。ここのカバマダラは当時知られていなかったガガイモを食っていた。

画像

1980年6月神着

 意外な蝶の発見により、私の蝶に対する興味は高まった。けれど残念ながら次の年にはいなくなってしまった。その年の冬の寒さに耐えられなかったのだろう。だが、次の年にはまたちょっと変わった蝶を見かけるようになった。こいつはカバマダラほど増えなかったようで、なかなか採集することはできなかったが、翌年にもまた目撃するようになり、やっと採ることができた。それはスジグロカバマダラだった。そして、これまた食草は三宅にない。けれど、見かけた回数から考えて、やはりどこかで発生しているのだろうと考えざるをえなかった。カバマダラ同様、ガガイモを食っているのではないかと思い、カバマダラがたくさんいたガガイモ群落をだいぶチェックしたのだが、とうとう卵や幼虫を発見することはできなかった。けれど、そんな迷蝶を2つも採ってしまうと、さらに蝶への情熱は高まっていく。

画像

1982年7月阿古

 それを決定づけたのはウスコモンマダラの採集だ。こいつは三宅どころか、沖縄にも分布していない。完全にガイコクの蝶なのだ。私はいろいろな文献を取り寄せ、三宅にいる蝶を調べ、それまでに採れたことのある蝶、分布と考えられている蝶などをまとめていった。

画像

1983年7月神着

 三宅で4年間過ごしたうちに、土着種と文献にあった18種のうち、チャバネセセリとゴイシシジミを覗く16種、および、それ以外にカバマダラ、スジグロカバマダラ、ウスコモンマダラ、キアゲハ、キチョウ、ツバメシジミ、キタテハ、ルリタテハの8種を確認できた。当時、私は迷蝶とは南から来るものだとばかり思っていたので、マダラを除いた他のものは土着しているものと思っていた。けれど、三宅にはキタテハの食草であるカナムグラはない。だから、キタテハも何か新しい植物を食べていると思っていた。今では、あれは北からの迷蝶だったのだろうと思っている。そしてそれ以外の蝶も食草の割に個体数が少ないので、あるいはどれも迷蝶なのかもしれない。
一応、文献に載っていたもの、および自分で確認した蝶を列記しておく。
 アゲハチョウ科 
ナミアゲハ クロアゲハ モンキアゲハ キアゲハ(文献になし) カラスアゲハ アオスジアゲハ
 シロチョウ科
モンシロチョウ スジグロシロチョウ キチョウ(文献になし) モンキチョウ
 マダラチョウ科
カバマダラ スジグロカバマダラ ウスコモンマダラ(以上3種文献になし)アサギマダラ
 タテハチョウ科
ツマグロヒョウモン キタテハ(文献になし)アカタテハ ヒメアカタテハ ルリタテハ(文献になし) リュウキュウムラサキ(迷蝶記録あり)
 ジャノメチョウ科
ウスイロコノマチョウ(迷蝶記録あり)
 ウラギンシジミ科
ウラギンシジミ
 シジミチョウ科
ヤマトシジミ ルリシジミ ウラナミシジミ ツバメシジミ(文献になし)ゴイシシジミ(文献にあるも確認できず)
 セセリチョウ科
イチモンジセセリ チャバネセセリ(文献にあるも確認できず)
 以上、29種。うち、25種を確認している。

 そして、それは三宅赴任の最後の年度である昭和58年(1983年)蝶のシーズンもほとんど終わり、次のシーズンからは日本各地に採集に行こう、などと考えているときだった。

 噴火の前日、10月2日は私の勤める小学校で運動会があった。だから、翌3日は代休だった。私は同僚の先生たちと一緒に雄山の中腹にあるテニスコートでテニスを楽しむ約束をしていた。ところが、昼飯後、さて出かけようとしたところへ、子供たちが3人遊びにやってきた。もちろん、テニスに行くので今日はダメだと言ったのだが、テニスコートのすぐ近くには滑り台などの遊び場もあり、そこで遊ぶから連れて行ってくれと頼まれた。勝手に遊んでいる分にはテニスにも差しさわりはない。しょうがないので、車に同乗させて雄山へと向かった。
 テニスコートは雄山の中腹にある。村営であり、料金はただである。申し込みの必要もなく、まあ、早い者勝ちと言っていいだろう。これが、23区だったら、夜が明ける前から場所取りのための争奪戦が行われるところだが、三宅ではそんなことはない。休日であれば順番待ちになることもあるかもしれないが、平日は誰もいないことが普通である。そして、この日は運動会の代休だから平日だ。この場所はいろいろな施設を作る計画があったのだろうか?近くにはレストハウスもあり、子供たちが遊びたがった巨大滑り台のような遊具もあった。どれも、最近作られたもので、この後も付属施設を作ることのできるスペースがあったから、噴火がなければ、もっといろいろな施設が作られていたかもしれない。
 さて、テニスコートの脇まで車を乗り入れて停めると、私たちはすぐにテニスの準備を始めた。と言っても、服装は家を出るときに運動できるようにしてあるし、靴を履き替えて、たるませてあるネットをピンと張ったら準備完了だ。子供たちは遊具の方に去って行った。帰るときに呼びに行けばいいだろう。もちろん、コートには誰もいなかった。
 軽くラリーをしたあと、すぐにダブルスの試合を始めた。いつものことだが、練習などほとんどしないで、すぐにゲームをやりたがるので、みんなヘボのままだ。それでも十分に楽しい。この日は珍しく、もう一組がコートにやってきたが、コートは1面だけではないので全く問題はない。
 そして、何ゲームかやってベンチで休憩しているときのことだった。時刻は15時30分ころ。私の耳に何か聞きなれない音が聞こえて来た。ジャーッという音で、ジャリを積んだトラックが荷台を傾けてジャリを降ろしているような音だった。だが、近くにはトラックもいないし、工事もしていない。皆で、何だろう?と辺りを見回していると、それを発見した。自分には100mくらい先と思えたが、実際にはもう少し遠かったかもしれない。そこに見えたのは砂の噴水だった。怪獣映画で、怪獣が地中から地上に現れるとき、そんな演出をするだろうな、などと思ったが、まさか怪獣が現れるわけはない。何だろう?竜巻か?いや、違うよ。などと首をひねっていると、あとからやってきた別グループの誰かが「噴火だ!」と叫んだ。
 山が噴火する様子はたいていの人がテレビなどで見ていると思う。しかしそれは、噴火し始めてしばらく経ってからの映像であって、まさに噴火が始まったところを見たことがある人はそういないはずだ。私はまさにその様子を目撃したことになる。
 へーえ、あれが噴火かぁ。などと私は興味しんしんだったが、仲間はみな慌てて逃げ出した。私は妙に肝がすわったところがあり、こんな場合でもあせることはなかったが、仲間はみなパニックを起こしていた。車まで走る間、コーラを手に持っていたため、コーラがビシャビシャとはねた。だが、捨てようと思っても、握った手を広げることができず、走りながら反対の手で指を広げて、やっと捨てることができた。とある仲間があとから言っていた。私は呑気なもので、レストハウスでお茶でも飲みながら噴火見物しようかな、などと思っていたくらいだ。だが、皆がいなくなって一人残されるのは嫌だ。私も車へと戻ることにした。が、ラケットを置き忘れたので、ベンチへ取りに戻った。ほんの数メートルだから、別にたいしたことはない。が、そのとき見た砂の噴水は明らかに大きくなっていた。これはちょっとまずいかもしれない。
 車は3台だった。道は狭いので、1台ずつしか出られない。私は真ん中だった。コートを回り込むようにして元の道へ戻るのだが、そのとき、また噴水が正面に見えた。噴水はもう、見上げるほどになっていた。もうこれは噴水などと言っている状態ではない。はっきり噴火とわかる。中心のあたりにチラチラと赤いものも見える。こりゃ、見物どころじゃない。大急ぎで遠くまで避難しなければ!
 だが、それでも私は冷静だった。噴火の位置を考えると、来るときに登ってきた道は噴火口の下の方を通ることになる。他のみんなはそれに気づいているのだろうか?できるなら、私が先頭に立って皆を誘導したい。けれど、狭い道では追い抜くことはできない。
 と、そこへ子供たちがこちらに走ってくるのが見えた。あー!忘れてた!危ない危ない。もう少し出て来るのが遅かったら、忘れて帰ってしまうところだ。もし、そうなったら、子供たちは助からなかったろうし、私もこんな悠長に回想録をつづっていない。自責の念は一生続いていただろう。まかり間違えば罪に問われていたかもしれない。大急ぎで子供たちを車に乗せ、再発進する。と、前の車も停車して人を乗せている。テニスコートにいた別グループだ。あとで聞いたのだが、車はレストハウスの方に停めたのだが、キーをかけてしまい、しかもそのキーをテニスコートに忘れて来たそうだ。基本、島では車のキーをかける人はほとんどいない。盗んでも島から出られないし、見つかったらバカをみるだけだ。家の鍵すらほとんどかけないのが普通だ。それなのに、そのときに限ってなぜかキーをかけてしまったと言う。
 とにかく、前の車はその人たちも乗せて、さらに進んでいく。そのころにはコツコツと大きな砂というか小さな石というか、その程度の噴石が車に当たり始めていた。再び噴火を見られる場所に来ると、それはもう、見上げてもフロントガラスごしでは車の屋根がじゃまで、上が見えないほどになっていた。中心部には明らかに赤い部分も見える。時間的には、初めに気づいてから、まだ5分もたってないだろう。私はフロントガラスが割れることも想定して、助手席に乗っていた子供に後ろの席に行けと命じた。
 そして、問題の分かれ道に差しかかった。右折すれば、来るときに通った舗装路だ。直進すると、遠回りな上に未舗装の山道になってしまう。普通なら当然右折するのだが、その道は噴火口の下方へと続くのだ。私はホーンを鳴らして、前の車に知らせようとしたが、その車は右折していってしまった。私は「付いて来いよ」という願いをこめて、ホーンを鳴らしながら直進したのだが、後ろの車も右折していってしまった。こうなったら、2台が無事に通過できることを祈るしかない。
 だが、噴石の大きさはどんどん大きくなってきた。こぶし大のものが落ちて来るようになったなぁ、と思っているうちにドッチボール大のものも落ちて来るようになり、すぐに、大玉スイカより大きなものも降ってきた。噴石が緑の草の上に落ちると、緑の葉がポワッと燃え上がる。緑の葉なんて、ライターでどんなにあぶったって燃えることはない。それが燃えるということは、一体温度はどのくらいあるのだろう?さらに、それが地面に落ちてパカッと割れると、中は真っ赤に燃えているのが見える。あれを踏んだらパンクするかもしれない。だが、だからと言ってスピードをゆるめるわけにはいかない。そこは山の斜面にある未舗装道で道幅も狭く、車がすれ違うのも難しいくらいだが、そこを時速5~60km程度で、ときにはドリフトも使いながらかっ飛ばしていく。うっかり左に寄りすぎれば崖にぶつかり、右に寄りすぎれば谷に落っこちる。運悪く噴石に直撃されたり、すぐ前に落ちて乗り上げたりしたら、一巻の終わりだろう。それでも、長時間噴石の脅威にさらされているよりはマシだろう。そんなことを考えながら、さらに5分ほど走ったあたりで、大きな噴石は落ちてこなくなった。どうやら、安全圏まで逃げ切れたらしい。
 スピードを落として、坪田の集落への道をたどる。三宅の道は島の外周を一周する道と、中腹を一周する道がある。外周路はきちんと舗装されているが、中腹のものは未舗装の林道だ。そして、それにつながる道は、数本ある。一番よい道が、行きに使い、帰りも仲間が使った道でこれは舗装されている。あとの道はどれも狭く未舗装で、そのうちの1本を使って外周路に下りたのだ。
 集落に入ると、当然のことだがみな噴火に気づいてざわついている。いつもは静かな集落も、人がみな外に出ているので、にぎやかに感じる。そこを抜け、三池を過ぎ神着方面へと走る。そして、子供のうちの一人の家に寄る。残りの子も家まで送っていくつもりだったが、そこから自宅に連絡すると、その家で待っていろと言われたとのだったので、任せることにする。
 そして、伊豆の自宅に戻る。まずは一緒にいた同僚たちの安否を確かめたかった。私は遠回りで帰ったのだから、無事であれば私より先に帰っているはずだ。
 彼らはすでに戻っていた。よかった。無事に通過できたようだ。相手もそう思っていたらしい。なんと、私を心配して警察にも連絡したらしい。変な方に行ってしまったから、心配したという。変な道じゃない。そっちこそ、なんで危険な道を選んだんだと、逆にこちらのほうが心配だったと伝える。彼らは溶岩流にはばまれることはなかったが、巨大な噴石に相当な恐怖を味わったらしい。一台の車はソフトボール大の噴石をボンネットに受けて、その部分がへこんでいた。そうだろうなあ。遠ざかっていった私でさえ、あれだけの噴石の中を走ったのだから、むしろ、一旦近づいていった彼らは、かなりの噴石を浴びたはずだ。でも、溶岩流の到達前だったのは、本当にラッキーだった。噴火がおさまってからわかったことだが、その道は溶岩流で完全に分断されていた。
 ところで、最初の噴火は雄山の頂上ではなく、中腹で起こった。そこから海の方へ向かって何箇所かから噴火が起こったらしい。山の頂上に向かっても噴火口は空いたらしい。つまり、噴火口は何箇所もできたのだ。これは割れ目噴火と呼ばれるものだが、三宅島自体が、海の中にある山の頂上部分だけが海の上に出ているようなものだから、実際には山のふもとから噴火したわけではない。だが、島だけを見ると、海辺まで噴火しているので、こんなふもとからも噴火するのか?と感じる。そして、私の自宅や勤務している学校はそこから山をはさんだ反対側にある。だから、その場所は溶岩流や噴石もなく、全く安全だった。だが、地震もあったし、非常時であるので、私はすぐに学校へと駆け付けた。
 学校にはすでに校長をはじめ何人かの職員が来ていた。学校はいざというときの避難所になる。その受け入れ態勢を整えなければならない。私は、校庭にラインを引いて、駐車場を作った。実際、何人が避難しているかわからなかったが、大げさと思えるほどたくさんの駐車スペースをライン引きで描いていった。そして、それはちっとも大げさではないことが後でわかった。むしろ足らなくなってしまった。なにしろ、溶岩流が阿古の部落を飲み込んだため、阿古のほぼ全員、数百人がここに避難してきたのだ。
 さらに、この後、大きな地震がくることも想定できた。私は理科を担当していたので、理科室の薬品が割れないように、布でくるむことにした。だが、数多い薬品をすべてくるむことはできないので、それは塩酸やアルコールなどの危険な薬品に限られた。そして、実際、その日の夜、震度4と震度5の地震が起こり、保護できなかった一部の薬品は床に落ちて割れた。とりあえず自分の判断が正しかったのでほっとしたものだ。
 職員室へ戻ると、そこは災害対策本部になっていた。たくさんの人がこれからのことについて忙しく動いていた。そして、避難者も次々とやってくるようになった。この辺りは記憶があいまいなのだが、確か、はじめに図工室などの特別教室を避難所に充てたと思う。だが、これも後でわかったのだが、溶岩流は阿古の集落を丸のみしてしまったため、そこの住民はすべてこちらに避難してくるはめになったのだ。当然、特別教室を開放したくらいでは場所が足らず、一般教室もすべて開放することになった。
 ある程度、落ち着いたところで、私は自分の家に戻った。学校のすぐ近くにある教員宿舎だ。学校同様、噴火地点からは山の反対側なので、被害は全くない。ここで私は考えた。今はまだ水も出るし、電気もついている。けれど、この先これらが安定的に使えるとは思えない。ガスは確かプロパンだったのではなかったか。この辺は記憶が不確かだ。とにかく、電気はどうしようもないので、ろうそくを準備するとして、水は溜めておきたい。風呂をまずいっぱいにして沸かす。さらにヤカンとなべに水を溜めておいた。そのあと風呂に入ったが、当然しばらくそのお湯は捨てないでおこうと思った。
 翌日になり、いろいろと情報が伝わってきた。噴火は朝にはおさまったようだ。山の反対側とはいえ、昨日まで見えていた噴煙がもう見えなくなっていた。だが、溶岩流が斜面にまっすぐではなく、横の方へ流れていったため、阿古の集落が溶岩流に呑まれつつあるという。溶岩の流出は止まっても、流れは止まらないらしい。
 さらに、その時の風が西風であった。その風に乗り、火山灰(ほとんど砂)が坪田の集落に降り積もったらしい。後で行ってみたところ、家も畑も道路も校庭も、すべて真黒な砂に覆われていた。まるで黒い雪が降ったようだ。そして、こいつは雪と違って溶けない。そして、雪より重い。住人たちは家がつぶれないように、屋根に積もった火山灰を降ろすのが、一番の仕事だったと言う。それでも、溶岩流に呑まれた阿古よりはマシだったろう。
 その後何日か、何をして過ごしたか忘れてしまったが、水道は4・5日くらいは使えた。というのも、貯水タンクに残っていた分があったのだ。ここの水道は島の反対側にある大路池という小さな湖水からくみ上げて水道管で全島に送っている。私の住んでいる伊豆集落へは、島の西側つまり阿古方面から送られている。だが、溶岩流はそこを流れていったのだから、当然水道管は機能しなくなっているはずだ。けれど、そのときはそんなことは知らなかったので、なんだ、意外と水道は大丈夫なんだと思って、せっかく残しておいた風呂の水も捨ててしまった。まぁ、だいぶ濁ってきたので仕方がないが、次に溜めようとしたときには、もう水が出なくなっていた。その後、給水車がきて、定期的に生活用水は確保できたが、さすがに風呂いっぱいの水はもらえない。水道が復活したのは1カ月くらいたってからだったので、その間は体を拭く程度のことしかできない。私は風呂好きで、ふつうなら1日でも入れないのは耐えられない。だから、途中で我慢できなくなって、海パンで海に入って体を洗ったこともある。海は近くにあるが、さすがに10月も末になると、海に入るのは寒い。しかも、シャンプーを使ってもちっとも泡立たないので、洗った気がしない。そして、そのまま乾かしても塩がベトベトして気持ち悪いので、貴重な真水を5リットルくらい使って、頭を洗い流すことになる。体も濡れタオルで拭く。だから、海風呂も、そうちょくちょくは入れない。
 水で困ったことは他にもある。水洗トイレだ。学校には数百人が避難していて、その人たちがみなトイレを使うのだから、水もすぐになくなってしまった。こうなると、小便はともかく、大便が流せなくなってとても困る。そこで、消防団の吸水ポンプを使って、プールの水を直接貯水タンクに入れた。だが、そうなると当然、水道の蛇口からもこの水が出るわけだ。この水を飲むということは、プールの水、しかも、使わなくなって2か月はたち、藻が繁殖しているような水を飲むというになる。蛇口にはすべて、「この水はプールの水です。飲めません」という表示をしたが、それでも、飲んでいる人はたくさんいた。そこで貯水タンクにプール用の塩素剤を放りこんだが、どのくらい効果があったのだろう?
 食事はほとんどが、配給に頼った。学校にいる避難民のために、毎日、食事が配給されていたが、私もそれに便乗していた。と言ってもズルをしていたわけではない。島の店もみんな休んでいたし、ほとんどの島民は配給を頼りにしていたと思う。
 2週間ほどして、学校が再開した。各教室にいた人たちは体育館に移動してもらい(体育館を避難所としてしきりなどで整備した)もともとの教室で授業が再開された。特別教室は阿古小学校の教室となった。阿古小学校は溶岩に呑みこまれていたのだ。給食も再開された。と言っても、配給が回されただけだが。パックのご飯、パックの牛乳、缶詰のサンマ、という感じだ。
 島の空き地にプレハブの仮設住宅が建って避難民が体育館から出て行ったのは、1か月くらい後だったろうか。それまでは、体育館はもちろん、校庭も駐車場になっていたため、体育の授業は狭い屋上で軽い運動をする程度だった。
 噴火から1週間くらいたったころだろうか?もしかしたらもっと後かもしれない。この辺記憶があいまいだ。阿古地区は全面立ち入り禁止になっていたが、溶岩にやられなかった家の人には、十分気をつけるという条件で自宅に荷物を取りに行ってもよいという通達がきた。私は当然該当しないが、知り合いの手伝いということで、出かけて行った。
バリケードをどけて車で進む。そして、実際に家の荷物を車に積み込んだあと、溶岩流の近くまで見物に行ってみた。阿古小学校の裏側から見ると、校舎は無事に見えた。けれど、中に入ると、教室の窓の外は溶岩で埋め尽くされ、割れた窓ガラスから、教室内に溶岩が流れ込んでいた。中はムッとするほど暑い。無事な階段を昇って屋上へ行くと、校庭は溶岩で埋め尽くされていた。ちょうど校舎が防波堤のようになって、溶岩をせき止めた形になっていた。屋上からその上に、歩いて渡り移れそうだった。せき止められ、盛り上がった溶岩は屋上の高さにまで達していたのだ。下に下りて、実際に溶岩流の際まで行ってみた。もう完全に固まっているように思えたが、見ている目の前で、最前線がガラガラと崩れ、中にはまだ赤い溶岩が見えた。噴火から大分時間がたっているのに、じわじわとまだ進んでいるらしい。実は、その年度の最後に、私は転勤して杉並に戻ったのだが、ほぼ半年たったそのころでも、雨が降るとそこからは、もうもうと湯気が立ち上っていた。半年くらいでは完全に冷えないのだろう。
 そして、これも1カ月くらい過ぎたころだろうか。役所から全島民に救援物資を支給するという通達があった。各世帯、ダンポール3箱、仮設住宅の者は5箱を配るので取りに来いというものだった。それまでにも、ちょっとしたものはいろいろと配給があった。携帯ガスコンロやカンテラなどは後々けっこう役に立った。もちろん、食糧やカンパンなどの非常食もちょくちょく配られたが、それらのものは、国だか都だかが用意したものだ。今回配られるものは、全国から集まった、いわゆる善意の贈り物だ。これらは、被災直後から次々に送られてきたのだが、直後は配るどころではない。てんやわんやで、みんなが忙しく動き回っていた。それらは坪田の学校の体育館に詰め込まれていったのだが、それは体育館の天井までいっぱいになってしまった。なんで、すぐに配らないんだと思うかもしれないが、とてもとても、そんなヒマはないというのが現状だ。そして、それだけの大量のものの中身を確認することもできない。とにかく体育館を使用できるようにするために、3箱ずつ持って行ってくれ、という状態だ。私がもらったものの中に何が入っていたか忘れてしまったが、近所の人にみんなあげてしまったと思う。人づてに聞いたのだが、品物はいろいろなものがあり、たいていは善意からのものだから、おむつがなくて困っているのではないか、とか、とりあえずカンパンなどの長持ちするもので食事の足しにしてほしい、という思いのこもったものだった。けれど、それが、きちんと必要としている人に届くとは限らない。赤ん坊のいないところにおむつが届いてもしょうがないのだ。そんな場合、もちろん赤ちゃんのいるところにあげてしまうのだが、どうしようもないものも数多くあったと言う。中には学用品が足らないのではと思ったのか、使いかけのノートや鉛筆などが大量に入っていたものもあったと言う。新品ならともかく、使い古しではいかんともしがたい。これらはゴメンね、と言いながら焼却炉に入れることになる。もっとひどいのは、着古した下着などがダンボールいっばいに入っていたものもあったと言う。救援物資を送るのに郵便料金はかからないのをいいことに、ゴミ捨て代わりに送ったのでは、と思われるものもあった。事前に何が入っているのか確かめられないのか?と思うだろうが、体育館いっぱいのものを、誰がいちいち開けて確かめるのだ?役所の職員は、避難者への配給、仮設住宅の手配、ライフラインへの対応、など、今までしたことのない、しかも早急にしなければならない仕事でてんてこまいになっているのだ。他の島民だって、ヒマでのんびりしている人は誰もいない。じゃあ、ボランティアは?それはある程度落ち着いてからの話だ。すぐ、来てもらっても、その人たちの泊まるところもないし、その人たちの対応という別の仕事が増えて困るだけだ。
 阪神大震災、奥尻島の地震、中越地震、東日本大震災、熊本地震、など、その後もいろいろな災害があったが、私は救援物資を送ったことはない。そんなもの、現地の手間を増やすだけで、善意の押し売りにしかならないとわかっているからだ。とは言え、これは経験したからこそ分かることで、普通の人にはそんなこと、わからないだろう。知り合いの個人に贈るものはともかく、誰かの役に立ちたいと思って送るものは、実は面倒をかけるだけなのだ。それでも被災者のために何か送りたいというなら義援金だろう。それも、すぐ送っても意味がない。なにしろ、災害直後は外部からのすべてのものに対応できないのだ。せめてひと月くらいたってからにした方がいい。
 溶岩によって分断されていた外周道路が開通したのは、3か月ほどたってからだったろうか。そのころになると、さすがに溶岩を崩しても赤く溶けたものは見えなくなっていたが、雨のあとに溶岩の上に作られた道を走ると、もうもうたる湯気に包まれてしまった。内部はまだまだ熱いのだろう。
 溶岩流の近くに車を停めて、その上を探検したこともある。一面真黒な溶岩が鬼押し出しのように連なっているところを歩いて登ったのだが、運よくいい場所を見つけると、とろけたカッコイイ溶岩を採取することができた。これは、まだ溶けている石がポタリポタリとしずくとなって落ち、それがちょうど固まって出来たものだ。私の宝物になっている。

画像

画像

画像

画像


 島の北側はほとんど変化はなかった。けれど、南側はひどかった。坪田に降り積もった火山灰はブルドーザーで撤去されていったが、その辺りの樹木はすべて枯れて、山は白骨のようになっていた。島の南には、7色に水の色が変化するという新澪(しんみょう)池という神秘的な湖沼があったのだが、これがなくなってしまった。新澪池はもともと噴火口に水が溜まったものと言われていたのだが、今回またそこで噴火が起こったようだ。
 ところで、この割れ目噴火は海岸まで続いていたし、溶岩流もほぼ海岸まで流れた。ということは、この2箇所の間は全く孤立していたはずだ。この間に人家は少なかったのだが、いくつかはあった。そこの人たちは、溶岩流が到達する前にちゃんと避難していたのだろうか?そう言えば、温泉ホテルもこの間にあった。三宅にも温泉があって、このホテルはそれを売りにしていたのだ。私は温泉が好きなので、週に2~3回くらいの割合でここに通っていた。けれど、噴火の後、温泉は出なくなってしまったという。ホテルも、温泉がないのに温泉ホテルとは言えない。再開するとき、名前がグリーンホテルに変わってしまった。
 他には、噴火した場所とは離れている海の色が変わったこともあった。変色海域というそうで、その後の大島の噴火などのときには、かなり話題になったものだが、このときはさほど騒がれなかった。
 そう言えば、噴火の前、やたらとイタチの姿を見かけるようになったのを、あとから気づいた。この島に、持ち込まれたイタチが繁殖しているというのは知っていたし、それまでにも何度か目撃したことはあったが、噴火の前は頻繁に目撃していたのだ。なんでこんなに増えたのだろう?と思っていたのだが、噴火後はまた見なくなった、あれはやはり噴火の前触れを感じて、異常な行動をとっていたからだろう。

 とにかく、大きな災害ではあったものの、死人もけが人もでなかったし、家を失って仮設住宅に移り住まなくてはならなかった人たち以外は、しばらくすると以前と変わらない生活を取り戻していた。
 私は、その年度で三宅を去り、杉並の学校に移ることになっていた。噴火から半年後のことだ。噴火後の混乱が続いていたら後ろめたい気持ちになったかもしれないが、そのころには平常が戻っていたので、名残はあったものの、平穏な気持ちで去ることができた。
 帰った翌年、再び三宅を訪れて、子供たちや先生たちとも再開したのだが、その後、三宅には行っていない。行こうと思っていたのだが、なんとなくきっかけがなくてずるずると過ごしてしまった。すると、2000年になってまた三宅は噴火した。私の経験した噴火から17年後のことだ。そのときの噴火はたいしたことはなかったようだったのだが、危険な有毒ガスがおさまらず、島民は全島避難することになってしまった。そしてその避難は4年以上に及んだ。現在、避難指示は解除されたが、そのまま島に帰らない人もたくさんいると言う。そして、有毒ガスは量こそ減ったものの現在でも発生し続けていると言う。それでも、故郷である三宅に帰島した人は多い。
 
 私が島を離れてから、いつのまにか37年もの月日が流れてしまった。だが、そろそろ私もまたあの島へ行ってみたくなってきた。三宅の噴火はこのところ、ほぼ20年間隔くらいで起こっている。昭和以降だと、1940年、1962年、1983年(今回の記録)、2000年という順だ。となると、そろそろ次の噴火が起こってもおかしくない。次の噴火がいつ起こるのかはわからないが、その前にまた訪れてみようかな。ここには日本一美しい(と、私は思っている)カラスアゲハがいるのだ。当時は蝶を始めたばかりで、その美しさに気づかず、春型の標本も一つしかない。もう少し追加したいな。今年、行っちゃおうかな。


ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 2

驚いた
面白い

この記事へのコメント

cherubim88
2016年12月17日 13:37
いつも拝読させていただいております。
私は先生に直接お目にかかったことはございませんが、実は私の従姉妹が先生の三宅時代に生徒としてお世話になっておりました。(そのためいつもこのコメント欄では「先生」と呼ばせていただいております)
私自身は三宅に行ったことはありませんが、そのようなわけで親類がいたので、当時の噴火災害は私もかなり心を痛めました。でも実際に体験したわけではないので、今回の先生のブログを読ませていただき、状況がさらによく理解できました。とても貴重な体験談をお聞かせいただき感謝いたします。
あれから随分と時は過ぎましたが、おかげでまたあの当時のいろんな記憶が蘇ってきました。
・・・  
これからしばらく蝶は寂しい期間となりますが、また次回のご活躍を楽しみにお待ちしております。
ありがとうございました。
シオシオ
2016年12月17日 19:17
cherubim88さん いつもありがとうございます

ええ?従姉妹が私の教え子だったんですか?誰だろう?それにしても驚きました。

考えてみれば、私が教師をしていたことは今回初めて明かしたので「先生」と呼ばれることも不自然だったんですね。自分が先生と呼ばれ慣れているので気にしていませんでした。

今回は、文中にもある通り、記憶がはっきりしているうちに書き留めておこうと思い立ったのですが、書いてあることにウソはありません。盛ってもいません。噴火後に関しては記憶違いがあるかもしれませんが、当日のことは鮮明に覚えているので、書いてある通りです。

従姉妹さんにもよろしくお伝えください。ありがとうございました。

この記事へのトラックバック